Chapter 8

どうか天国に花が流れて


海にずっと浸かっていた手のひらは、いつもより冷えていた。それでも、残酷なほど温かい。

彼も、私も、温かい血が通って、生きている。

天国には辿り着けない。

大切な人には、会えないまま。

: あ……謝らないでください。謝らないで。

ルチル: 賢者様……。

: いなくなってしまった人に、もう一回会いたい気持ち、私もわかります。

: もういないってわかってるとか、そんな奇跡はありえないとか、そういう……単純な話じゃないですよね。

ルチル: ……っ、……。

: だから、我慢しないでください。どうか……。

フウィルリン: ――晶!

: ……っ。

不意にまた、声が聞こえた。

笑いながら私を呼ぶ声。

きっと、透き通るような銀の瞳を細めて、無邪気に、大きく口を開けて。

私は何も言えなくなった。

何かを言ったら泣いてしまうとわかっていた。

: (ルチルを連れて帰るために来たのに……)

ルチル: ……。

急に黙った私の手を、ルチルがそっと握り返した。

濡れた指先から伝わる、わずかな温かさ。

ルチル: 賢者様。

ルチル: 我慢しないで……。

: ……、っ……。

咄嗟に首を振りかけたけれど、彼の濡れた瞳を見て、やっぱり、頷いた。

大きく息を吸う。温かい潮の匂いが胸を満たす。

彼の匂いだった。

海で出会って、海で遊んで、海でお別れをした、彼の。

黄金の日差しの中、潮風になびく銀の髪。

水飛沫に煌めく、優雅で神々しい鱗。

人の姿でも、ドラゴンの姿でも、笑う時の瞳の細め方が一緒だった。

それが、私は、とても好きだった。

: ……っ、ふっ……。……う、……。

ぼろぼろと涙が溢れて、透き通る暗い海に溶けていく。

胸が痛くて痛くて、寂しくて苦しくて、叫び出したかった。

なのに、どうしてだろう。

あたたかいような、満たされるような、不思議な心地がするのは。5859}-1}-1}

: ふ、……う……。

ルチル: ……っ、……。

波に揉まれて、惹かれ合うように、私たちはお互いを支えた。

幾百、幾千の祈りをのせた花に囲まれて、思いのまま、涙を流す。

海に星の光が落ちている。

揺れる花々も、煌めく水面も、優しい夢みたいに、銀色に照らされる。

オズ: 賢者。ルチル。

どれくらいそうしていただろう。ふと、水をかき分ける音が聞こえた。

振り返ると、オズとシャイロックがこちらに歩いてきていた。

魔法で波を止めているのか、二人の周りの水面だけ、ガラスのように静かだ。

ルチル: オズ様、シャイロックさん……。

オズ: 浄化は夜明けにすることにした。

ルチル: え?

シャイロック: 昼間も申し上げた通り、この異変は、本質的に危険なものではありません。

シャイロック: ルチルへは強く影響が出てしまいましたが……。賢者様のおかげで、もう大丈夫でしょう?

ルチル: はい、大丈夫です。でも……。

シャイロック: ならば、心ゆくまで愛する人との別れを惜しんでからでも、よろしいではありませんか。

星の下、シャイロックの微笑みは優しい。

私はまた、泣きそうになった。二人に、何度も頷く。

ルチルと一緒に泣き出して、きっと、浜辺の魔法使いたちには心配をかけたはずだ。

それでも、やっぱり、懐かしい声とお別れしたくなかった。

その気持ちを汲んでもらえたのが、嬉しくて、ありがたかった。

オズ: 賢者。ルチルを手放すな。

オズ: ルチル。賢者を決して手放すな。

ルチル・晶: はい。

繋いだ手に力を入れて、私たちは揃って頷いた。

カイン: …………。

カイン: (……あんたたちの声が、本当は、俺の心が聞かせてるものだってこと)

カイン: (昨夜のオズとアーサーの反応で、なんとなく、察していたが……)

カイン: (それでも、この花をあんたたちに。懐かしいなって笑ってくれたら、嬉しいよ)

ファウスト: …………。

ファウスト: (きみたちの故郷の花を、なるべく揃えたつもりだ)

ファウスト: (きみたちの魂に安らぎがありますように)

ファウスト: (あの動乱を駆けたきみたちに、神様が永遠の幸福を与えますように)

スノウ: わー、カニさんじゃ! カニさんじゃ!待て待て~!

ファウスト・カイン: …………。

ファウスト・カイン: 元気だな……。

スノウ: それっ……ほほほ!とったのじゃー!

カイン: ……スノウ様。あんたは花を流さなくて大丈夫なんだな。

ファウスト: カイン……。

スノウ: よいよい、ファウスト。我には何者の声も聞こえぬ。

スノウ: ホワイトと我は、永劫共にあるゆえな。

カイン: はは、だと思った。

ファウスト: ……それならいい。当のホワイトは?

スノウ: 絵から抜け出して、夜間営業のジュース屋に行っておる。果物飴の店にも行くべきか悩んでおった。

カイン: いいな、大満喫じゃないか。…………。

カイン: ……これは、今すぐどうこうって話じゃないんだが。

カイン: 魂を繋ぎ止める術は、どれくらい難しいんだ?

ファウスト・スノウ: …………。

カイン: 死にゆく者を、こちら側に引き戻す術は?死の運命は本当に覆せないのか?

スノウ: 我らの術は、死者を蘇らせるものではない。双子として、魂が深く結びついていたからこそ、かろうじて成り立った特例じゃ。

カイン: だが、オズは、ファウストを死の淵から救っただろう。

カイン: 俺はただ……なんでもいい、命を引き留める方法があればと……。

スノウ: 瀕死の者を癒すことと、死者を呼び戻すことは違う。

スノウ: オズがファウストを救えたのは、まだ命がこの世に繋がっていたから……。つまり、死ぬ運命になかったゆえじゃ。

スノウ: 去りゆく運命ならば、見送るしかない。

カイン: …………。

ファウスト: …………。

ファウスト: ……僕たちはいつまでも、何度でも、痛みに耐えるしかないのか?

ファウスト: どれほどの絆を築いた相手でも、死が決まっているなら、見送る他ないと……。

スノウ: その通り。悠久を生きる、我ら魔法使いの宿業じゃ。

スノウ: どれだけ思いをかけても、皆去っていく。

スノウ: それが嫌ならば、何も愛さずにおるしかない。

スノウ: あるいは、決して壊れないたったひとつだけを……。

スノウ: ……愛しておれば、それでよかったのにのう。

シャイロック: …………。

ブラッドリー: よう。

シャイロック: ブラッドリー。

ブラッドリー: 何か聞こえるか?

シャイロック: どうでしょう。聞こえる気もしますし、聞こえない気もします。

シャイロック: ……あなたは、どなたの声が聞こえるのですか?

ブラッドリー: …………。

ブラッドリー: ……はあ。てめえにゃ、誤魔化しきれねえか。

ブラッドリー: あいつらの……、俺の手下どもの声が聞こえる。

ブラッドリー: 捕縛のどさくさで、双子に石にされたやつらの声が、風に乗って、ほんのたまに。

シャイロック: ……。

ブラッドリー: 馬鹿げた話だ。

ブラッドリー: あいつらは、北の国で思い切り騒いで、奪って、飲んで、戦って、誇り高く石になった。

ブラッドリー: あんな、花まみれの腑抜けた天国に、あいつらがいるわけねえのによ。

シャイロック: ……北育ちの方々が、あの美しい花園に辿りついたら、さぞ、驚いてしまうでしょうしね。

ブラッドリー: まあな。不凍の海を見たことねえどころか、海のことをでかい湖だと思ってるやつもいた。

ブラッドリー: 生きた花を見たことねえやつもザラだった。

ブラッドリー: 死んで、あんな花まみれの島に着いちまったら、どこだよここ、なんだよこれって、騒いでよ。

ブラッドリー: でも、あいつらは馬鹿揃いだから、こいつは魔法の箱庭だ、お宝があるぞって、ディランあたりが適当を言ってさ。

ブラッドリー: そうだそうだって、深く考えもしねえで連れ立って。当てもねえのに、探索に出て……。

ブラッドリー: ……っ、ああ、くそっ……。

シャイロック: …………。

ブラッドリー: やめろ。そんなふうに、わざわざ背中を向けなくていい。

シャイロック: なんのことでしょう。私はただ、向こうの星が気になりまして。

ブラッドリー: いいっつってんだろ。こんなのは、ただの与太話だ。

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